エッセイ

【米ミネソタ:デモでの悲しさと温かさ】自分の発信力を鍛えたい気持ちを強くした

アメリカ中西部ミネソタ州での警官による黒人男性殺害の報道を発端とした一連のニュースを見て、人間ってなんて愚かなんだという思いと、人間ってなんて温かいんだという気持ちが入り混じっている。

*この記事では、最近のこのアメリカのニュースについて自分が抱いた気持ちを正直に述べているだけで、他意はありませんので、あしからず。

事のはじまりとして起こった警察官による黒人男性ジョージ・フロイドさんの殺害、それに対する憤慨する人たちの気持ち。偏見、差別。

それは、ぼくを含め日本に住んでいるほとんどの日本人には、想像するのが難しい。

難しいからといってただ起こっている事を対岸の火事ばりにぼんやり見ているのも嫌だったので、こうして筆をとった。

 

ジョージ・フロイドさんを悼んで、昔から根付いているものをいい加減を変えようとする、平和的にデモをする人々はとても尊敬する。

でもその一方で、偏見や差別を理由に全く関係のないお店を襲撃し、金品を奪う人達がいる。

その背景には、日本よりも格差が大きい為に働きたくても働けない、差別のせいで自分に自信を失ってしまった人がいるのかもしれない。

でも、だからといって、腹が立っているからといって、関係のない同じ街にすむ隣人に暴力をふるっていい理由には絶対にならない。

平和的に抗議をして世界を変えようとしている優しい人たちの邪魔をしていると、結果的に自分たちを陥れることになると何故気づけない。

ただ、こうやって発言している自分はアメリカの歴史をたいして知らず、格差も深刻な貧困も勉強していないくせに安全な場所からよく偉そうなことが言えるなと自分のどこかが言っている。

それでも、書かずにはいられなかった。

 

偏見や差別は嫌いだ。そして自分勝手で何事も我先にと自分都合でしか考えないのがとても嫌いだ。

日本でもコロナに関するニュースで、そんな人々をたくさん見てきた。

 

そうじゃない人も沢山居る。

ミネソタ州のデモに関する記事で、デモをおさえるべく派遣された警官数名が、デモを行う人々に対して腰を落とし、膝を折る態度を見せた。

ぼくの勝手な解釈だけど、きっと「あなた達に危害を加えるつもりはない。わたしも一緒にこの社会を変えたいと思っている」という意味だと思う。

その警官たちはその後、デモを行う人々の行進に加わって「ありがとう」と気持ちを伝えあっていた。

 

ほかにも、乱戦をくりかえしている警官隊と暴徒とのなかで、同僚からはぐれてしまった1人の警官を、腕を組んで守る数人の黒人男性。

 

暴徒が襲撃しようとしているスーパーを、ケガするかもしれないのに身を挺して守ろうとしている、黒人デモ隊の人々。

 

ジョージ・フロイドさんの兄弟の方が暴徒たちに向かって、「暴力では何も解決しない。そんな暴力的な行為は当事者の自分は一切望んでいない。選挙で変えるんだ」と叫んでいた。

こんな最悪な状況で自分の事しか考えていない連中がいる中で、なんて心優しい、温かい人、強い人たちがいるんだと涙が出た。

 

こんなにも相手を愛そうとし、思いやりの心を忘れない人々がいるのに、それを見もしないで自分の欲望の限りをつくそうとする人たちはなんなんだと、はらわたが煮えくり返って涙が枯れた。

 

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北海道に会社を持ち、民間でありながら宇宙船の開発や世界に数か所しかない無重力の実験場を作った、植松 努さんという方がいる。

細かい話をすると止まらなくなるのでここでは割愛させて頂くが、植松さんは

「”どうせ無理”という言葉は、最悪の言葉だ」と言った。

人は生まれた時は無限の可能性を持ちたくさんの夢を持って育っていく。

でも成長するにつれて【良識のある大人】達から、自分の抱く夢に対して「どうせ無理」と言われ、少しずつ自信を奪われ、次第に【良識のある大人】の一部にされてしまう。

貧困・格差の大きい国に住む人々も、最初は夢に溢れていたはずが、周りの”どうせ無理”に次第に毒されていき、ついには人を殺し、物を奪うようになっていくという。

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ミネソタ州から始まった暴徒達も”どうせ無理”に自分の自信を奪われてしまった可哀そうな人なのかもしれない。

 

人を変えるって、とっても難しい。

友達や恋人、親でさえ変える事が難しいのだから、見も知らない人を変えるのなんてさらに無謀な話だ。コスパ悪い。 自分が変わる方が早いし楽。

大人になってからのぼくはもう、ちょっとずつそんな考えになっていた。

 

でもそうじゃない事に気付けた。

ぼくは自分のつまらない人生に悩んでいた頃、歌うたいの竹原ピストルさんの歌や、執筆屋のあんちゃさんの言葉に触れて、変わろうって思うことが出来た。

竹原ピストルさんの歌を聞いたから、諦めない、何度も走り出し続ける、自分に屈しない心を分けてもらった。

あんちゃさんの記事を読んだから、自分の軸を持ち、言葉に覚悟を持つと決めた。

そしてあんちゃさんを知ったから、植松 努さんという人を知ることができ、「こんな自分でも良いんだ」と許してもらえた気がした。

 

今もまだ良い兆しなんか全然ないけれど、めげずに変わろうと もがく事が出来ている。

あったこともない人のおかげでぼくは少しでも変わることができた。

 

だから今は人を変えるのは無理じゃない と確信している。

その為にいまぼくは自分で自分のブログを鍛えてる。(もちろんお金が欲しいのもあるけど。)

 

遠い地アメリカでの悲しくも腹立たしく温かく優しい心に触れて、この報道で自分の心が動いたから、今まで自分に優しくしてくれた人達の恩義に応える為に、”どうせ無理”に侵されている人達の気持ちを、ほんの少しずつでも、少しでも変えたいと思った、夜でした。